林虎彦氏(創業者)の経歴・評判・評価・口コミ

年月日 出来事
1926年
(大正15年)
5月18日
台湾の高雄市で生まれる。父親が台湾で精糖会社を経営していた。三男。裕福な家庭で生まれ育った。
1944年3月 台湾旧制高雄中卒。
1945年 敗戦とともに、日本に引き揚げる。佐賀県に住んだ。
不明 職を求めて東へと向かった。金沢のパン屋と和菓子屋にたどり着いた。修行を積んだ。
1950年 金沢で和菓子屋「虎彦」創業。
1954年 栃木県に移住。鬼怒川で「虎彦製菓」設立。
1962年 自動包餡(ほうあん)機の開発に成功。
1963年 レオン自動機創立。代表取締役社長に就任。
1968年 新型の製パン機「202型」の開発に成功。
2005年5月 旭日中綬章受章。

和菓子の職人になる

林虎彦氏は、日本人ながら台湾で生まれた。父親は、製造業の経営者。

少年時代に母親が病気で他界した。2人の兄も戦争で亡くした。

敗戦で日本の佐賀県に引き揚げた。その後、仕事を求めて金沢へ移住した。そこで菓子職人として修行した。

独立して金沢で菓子店を開いた。

栃木の和菓子屋として成功

1954年に栃木県に移った。鬼怒川温泉郷に倉庫があったので、和菓子メーカー「虎彦製菓」を開業した。

和菓子「鬼怒(きぬ)の清流」を創作した。薄いビスケット生地であんこをはさんだ。大ヒットになった。現在も栃木県で伝承される

和菓子づくりの自動化に着手

しかし、和菓子づくりは、朝5時起きで仕込みを始め、すべての仕事を終えるのは夜中になるという過酷な仕事。近代工業化の進展で、若い人たちは自動車や家電の工場に取られた。

洋菓子も普及し、和菓子屋はどこも存亡の危機に立たされた。そこで、饅頭(まんじゅう)の自動生産機を開発しようと決心した。最初は、自動車部品を寄せ集めて機械をつくった。

東京で下宿しながら研究に没頭

さらに、私財を投げ売って研究開発に没頭した。借金で妻の実家まで差し押さえられる事態になった。それでも研究を止めなかった。

東京で下宿をしながら国会図書館に通いつめて食品の科学を一から学んだ。やがて、当時化学工業などに応用されていた「レオロジー(流動工学)」に着目した。

レオロジー(流動学)とは

林虎彦氏が注目した「レオロジー(流動学)」とは、粘弾性のある物質の変形や流動を解明する学問である。

林氏は、お饅頭や大福のように粘り気と弾性のある和菓子の成型加工に利用することを思いついた。

「和菓子の機械化は無理」と思われていた

和菓子の食材である「餡(あん)」を包む素材は粘り気と弾力がある。

少しの圧力で組織が壊れてしまう。

非常に繊細なものだ。

だから、機械化は無理と思われていた。

林氏は、逆転の発想でこの難題を解決した。

機械から素材を「押し出す」のではなく、「引き出す」ことにしたのだ。

独特のらせんカーブの形状を持つ包着盤(ほうちゃくばん)という円盤を2枚使った。

上部から供給される素材を、その間にねじるように引き込んだ。

ねじれの力を利用して素材を球状に成形する仕組みを発案した。

包餡機(ほうあんき)1号機を完成させ、レオン自動機を設立

数年にわたる試行錯誤の末、1963年に第1号機「R-3型」を完成させた。

1964年、改良機「101型」の完成とともに会社「レオン自動機」を設立。和菓子店に対して販売を始めた。社名は「レオロジー」からとった。

機械があれば、職人たちは辛い作業から解放される。しかも、手作りと比べて生産性が20倍以上も上がる。

包餡機(ほうあんき)は瞬く間に全国の和菓子屋に広まっていった。

製パン機の開発へ

包餡機の開発に成功した林は、欧米を視察した。

「包む食文化」は世界中にある。

中華まん、ピロシキ、クノーデル(ドイツの団子料理)、タマレス(メキシコ風ちまき)、ミートパイなどだ。

人間は皆同じものを食べていることを知った。

ならば食づくりの原理も同じはず。林は、新たに包餡機をベースにした製パン機の開発に乗り出す。

レオン自動機の包餡機も世界に広がった。

1968年に新型の製パン機に成功

1968年に新型の製パン機「202型」の開発に成功した。

ドイツ、フランス、イタリアなどパン作りの本場ヨーロッパへと進出した。

性能の良さが実証されると順調に普及し、製法が難しいクロワッサン向けでは世界シェアの9割を占めるまでになった。

株式上場

1987年2月20日、東証二部に株式を上場した。さらに、1989年に東証一部に昇格した。

世界中で特許

林虎彦氏率いるレオン自動機は世界中に特許を出願登録し、公開した。その後も機械の改良を絶え間なく続けた。林氏は、レオロジーを後世に残すには第三者が具体例を見てわかるようにしておかなければならない、と考えたという。

リース事業に進出

バブル経済下の1987年9月、レオン自動機は同社製品を主とするリース会社、レオン・リース(本社宇都宮市、社長林鋭氏)を設立した。

資本金は1000万円。全額をレオン自動機が出資した。

ユーザーである食品メーカーからリースによる設備導入の需要が増えていた。

しかし、同社の食品機械は多用途のソフトウエアが売り物だった。

既存のリース会社では、機器の取り扱いノウハウを含めたメンテナンス需要に応じ切れなかった。

そこで、自社でリース子会社を設立した。既存のリース会社では対応できないメンテナンスサービスを付け加えたリース行うことにした。メンテナンスサービス収入の拡大も図った。

社長には、レオン自動機の顧客資金サービス部長だった林鋭氏が就任した。林鋭氏は、林虎彦社長の養女の夫。優れたビジネス感覚で、市場関係者から高い評価を得ていた。

1987年2月の東京証券取引所第二部上場時に集めた資金の運用なども事業対象としていた。

設立の目的

(1)食品成型機の販売促進

和菓子などの食品メーカーは、職人の腕に頼ることが多く、職人が変わると売り上げに響く可能性があった。このため数年間の決算数字だけでは与信判断がしにくい。レオンの場合、販売員が各食品メーカーに精通している点で金融機関では資金が貸し出せないところにも与信が可能だった。

(2)顧客側の経費の明確化

ユーザー側が高価格の機械を購入しなくても、リースを導入すれば月々の支払いがはっきりし、経費面で安定的になる。食品メーカーはそれまでパートタイマーに頼ることが多く、経費も把握が難しい面があった。

(3)幅広いサービスの提供

1987年当時、レオン自動機の売上高の約2割がリース会社や商社だった。メーカー直系のリース会社なら、ハードだけのリース以外にも目に見えないサービスがうけられるメリットがあった。

リース物件の7割は包あん機などの食品成型機

当初の2年間くらいは、扱うリース物件は親会社の食品成型機のみだった。他社製品のリースはやらないというのが特徴だった。

その約7割が包あん機などの単体機だった。

このためリース料は大きいものでも月80万―90万円となっていた。

和菓子業界では、人手不足が深刻になってきていた。

機械は8人程度の金額で20人分の働きをする、と見られていた。

13年の労働争議和解/労組、宇都宮で勝利報告

労働組合員の昇給率などをめぐり、栃木県宇都宮市野沢町の菓子生産機器メーカー「レオン自動機」(林虎彦社長)と労働組合(枝文男委員長)が争っていた行政訴訟の和解が、2004年05月21日までに東京地裁で成立、13年にわたる労働争議が終結した。

組合側によると、和解内容は(1)組合員の賃金回復(2)過去の不利益分に解決金を上乗せして一時金を支払う(3)組合活動のために、会社施設を無償貸与-などが柱で「全面的な勝利」と受け止めている。

組合は1991年、組合員15人の昇給率が非組合員より低く設定されているとして、栃木県地方労働委員会に救済などを申し立て、地労委は賃金差別是正を命じた。中央労働委員会も九五年、同様の命令を下したが、会社側が中労委の命令取り消しを求め、東京地裁に提訴していた。

組合は2004年05月21日、勝利報告集会を宇都宮市内で開催。現在の組合員は10人に減少したが、支援者120人が集まった。枝委員長は「皆さんのおかげ。この経験を生かしていきたい」と充実した表情であいさつした。

林啓二氏が後継社長に就任

2005年6月、林啓二専務(当時51歳)が社長に昇格した。

啓二氏は、虎彦氏の養子である。

林虎彦社長(当時79歳)は代表権を持つ会長に就いた。

これまで会長職は空席だった。

林氏は情報管理の経験が豊富だった。売り上げデータを活用した市場分析などが得意とされた。

プロフィール

林啓二氏(はやし・けいじ)

出来事
1953年栃木県に生まれる。
1976年東京電機大工卒、レオン自動機入社。
1999年取締役(情報管理部長)
2000年専務(情報管理担当)