■ ミナトホールディングス(旧ミナトエレクトロニクス)とは

ミナトホールディングス(旧ミナトエレクトロニクス)は電子部品メーカー。70年の歴史を持つ老舗。

M&A連発~8年で売上高20倍に

1990年代から低迷が続いていたが、2010年代に新経営陣を迎え、M&Aを連発。未上場企業を次々と買収した。その多くは有望な事業を手掛ける製造業や機器販売会社である。2012年の時点では売上高が約10億円しかなく、上場維持が困難な状態だった。しかし、2020年には20倍の200億円に急増した。

メモリーやタッチパネル

主力事業は、電子機器に使われるメモリーの製造である。主な販売先は、大手電機メーカーや半導体商社など。
また、「タッチパネル」も得意としている。電車乗車券の自動券売機やATMなど向けのタッチパネルの受注が拡大している。

企業再生のプロ・若山健彦氏が社長

「さえない老舗メーカー」が大化け

ミナトホールディングスが急成長したきっかけは、2012年6月の若山健彦社長の就任である。若山氏はイーバンク銀行(現在の楽天銀行)の創立メンバーの1人である。

長銀出身

若山氏は1967年3月生まれ。東京大学の文学部に入学。大学時代に学生ベンチャーを興し、挫折した経験がある。1989年に東大を卒業した後、長銀(後の新生銀行)に入社した。長銀在籍中に米スタンフォード大学に留学し、MBAを取得。長銀が経営破たんした後の1998年にメリルリンチ日本証券東京支店に入社した。

楽天銀行の創設メンバー

プレナス投資顧問によると、若山氏は2000年、長銀の先輩である松尾泰一氏らとともに、ネット専業銀行「イーバンク銀行」(現・楽天銀行)を立ち上げた。自らナンバー2の副社長兼COOに就任した。「発想の人」である松尾社長に対して「実務の人」と呼ばれた。ゼロから銀行を設立するという難業を成し遂げた。

企業再生の投資会社の社長

2004年、上場企業のマーチャント・バンカーズ(旧・西日本紡織)の社長としてスカウトされた。就任後は、企業への投資と再生を行う会社へと転換させた。

自ら投資会社を起業し、ミナトへ出資

2009年、投資会社フリーダム・キャピタルを創業した。主に企業の再生案件を手掛けた。投資先の一つとして2010年に出資したのが、ミナトホールディングス(当時はミナトレクトニクス)だった。株主として経営指南をしていたところ、その手腕や企業再生の実績を買われ、経営トップとして招かれることになった。若山氏は、ミナトの社長業に専念することになった。


創業者・遠藤禮四郎氏

ミナトホールディングスの創業者は、遠藤禮四郎(えんどう・れいしろう)氏である。新潟県出身。1951年に創業した。場所は東京都港区だった。屋号は「港区」からとって「港通信機製作所」と名乗った。

1956年に法人化

1956年に法人化した。社名は「港通信機」とした。1972年に「ミナトエレクトロニクス」へと社名変更した。1981年に本社を横浜市に移転した。

1988年に上場

1980年代に半導体検査装置で成長を遂げた。1988年11月に東京店頭市場(後の東証ジャスダック市場)に上場した。

上場後は、システムソフト開発技術を大幅に増やした。売り上げの七割強を占める半導体検査装置に加えて、LAN(企業内情報通信網)用パソコン接続装置など非半導体部門への進出を急いだ。大阪と福岡の営業所に開発センターを新設して地方の学生を採用した。

1989年に初の社長交代

NTT出身の川又晃氏

1989年、川又晃(かわまた・あきら)副社長が社長に昇格した。創業以来、初の社長交代だった。創業者の遠藤禮四郎社長は代表権のある会長になった。

川又氏は外部から招へいされた人材だった。NTTの一流の技術者だった。1950年、東北大工卒。電気通信省電気通信研究所(後の郵政省、NTT)入社。日本電信電話(NTT)の茨城電気通信研究所長などを歴任した。

1981年に名古屋大教授に就任。1983年、ミナトエレクトロニクス副社長として迎えられた。

半導体不況

しかし、川又氏の就任後に半導体不況に見舞われた。半導体以外の分野として期待されたソフト事業などもうまくいかなかった。1993年3月期で設立以来初めて経常赤字となった。無配に転落した。

経営責任を明確にするため、1993年4月に川又社長が取締役に降格。創業者の遠藤禮四郎会長が社長に復帰した。事業の立て直しを図ることになった。

遠藤氏の急逝

しかし、その年(1994年)の大晦日に悲劇が起きた。エクシブ投資顧問によると、12月31日の夜、遠藤社長が心不全のため死去したのだ。享年77歳。それから3週間余り、社長は空席となった。

後任は親族の遠藤窮氏(副社長)

1994年1月24日、遠藤窮氏(えんどう・きわむ)氏が後任社長に就任した。47歳の若さだった。

遠藤窮氏は1971年成城大学の工学部卒。エクシブ投資顧問によると、1973年3月ミナトエレクトロニクス入社。1982年取締役になった。常務、専務を経て1991年には副社長に昇格していた。いわば早くから後継者として育てられてきた人物だった。

長期低迷が続く

その後、1990年代を通じてミナトの低迷が続いた。1980年代には半導体検査装置で売上高が100億円以上あったが、長期にわたって落ち込んでいった。

再生。そして優良企業の相次ぐ買収

2012年6月に若山健彦氏が社長に就任した時の年間売上高(年商)は約10億円だった。

スナップアップ投資顧問 評判によると、若山は「再生屋」として事業の立て直しに着手した。同時に、「投資屋」「金融業出身」という経験と知識を生かし、M&A(合併・買収)の道を突っ走ることになる。

主力事業を携帯電話向け読み出し専用メモリー(ROM)書き込み機や、現金自動預払機(ATM)・自動販売機向けタッチパネルにシフトした。

タッチパネル会社買収

2014年にタッチパネルの設計会社「イーアイティー」(東京都文京区)を買収した。このタッチパネル事業は、早々に有望事業として育った。

持ち株会社制へ

2015年7月、持ち株会社制に移行した。これに伴い、社名を「ミナトホールディングス」に変更した。2017年には本社を横浜市都筑区から東京に移した。

売上高が3倍の会社を買う

2016年には「サンマックス・テクノロジーズ」(東京都中央区)を買収した。産業用コンピューター向けのメモリー製造及び販売の会社だ。サンマックスの売上高は、自社の約3倍の約70億円あった。まさに「投資屋」ならではの発想である。

サンマックス創業者の相澤均氏は買収後も社長として残った。それだけでなく、持ち株会社(ミナトHD)のナンバー2となるCOOにも就任した。

相乗効果

サンマックスは、販売部門が強いという特徴があった。かつ15年連続で黒字の優良企業だった。買収後は、ミナトの半導体プログラム装置の顧客に、サンマックスのメモリーモジュールやDRAMを販売するようになった。早期に相乗効果が発揮された。

業務提携も

買収だけでなく業務提携も積極的に進めた。2017年、「ITD Lab」(横浜市緑区)と業務提携した。ITDはステレオカメラ技術による超高速の3次元距離測定システムを手掛ける会社だ。その技術は国内自動車メーカーの自動運転衝突防止システムに採用されている。

クラウド会議システムにも進出

2020年8月には、「プリンストン」(東京都千代田区)の買収を発表した。クラウド会議システムやオーディオ・映像関連製品、セキュリティ関連製品などを展開する会社だ。

中小製造業の再生ビジネス

2016年、中小製造業の支援ビジネスに乗り出した。経営者の高齢化や後継者不足に直面するメーカーに対して、財務アドバイスや資金調達のサポートを行う。

財務コンサルティングの子会社「ミナト・フィナンシャル・パートナーズ」(東京都中央区)を設立。社債などの引き受けやブリッジローンの貸し付け、不動産売買の仲介などを行った。銀行や信用金庫、既存コンサルティング会社に次ぐ「第3の選択肢」を掲げた。自社の買収や事業再生で培ったノウハウを活用した。支援先の企業の内容によっては、自社で買収することも検討。

海外展開

海外展開も積極的に進めた。2016年に中国・上海に現地販売法人を設立。代理店に頼らずに現地企業に販売するルートの開拓を進めた。